Column

2019/07/01

突然の婚姻破棄と余話

前回までのあらすじ

 1994年ホーチミン市に駐在員事務所を開設するために赴任し てきた僕は、偶然に知遇を得たベトナム人男性に紹介された旅 行会社で、ある女性に一目惚れする。その旅行会社の社長の 厚意で運よく彼女を秘書にし慌ただしい日々を過ごしていた。出会いから半年で、僕は彼女にプロポーズ。彼女は快く承諾。彼女の両親に会うことになり、ホーチミンから2000キロ離れた郷里ベトナム北部ソンラ省へ。やっとの思いで彼女の実家に到着。 和やかな宴をかわきりに途中から質問攻め。彼女が通訳に機転を利かせたこともあってか、なんとかご両親からお付き合いの許しを得た。挨拶も済みホーチミンへ戻ろうとしたところ、予想外の結婚披露宴が設定され地元のテレビ局までくる始末。その撮影が泥酔し記憶のぶっ飛んだ僕のその隙間を埋めてくれたのは何とも皮肉であった。

突然の婚姻破棄

 ようやく顔から火がでるほど恥ずかしいテレビ放映も終わり、 おもむろに、お父さんは結婚式で頂戴した祝儀を僕ら2人に手渡してくれた。500人以上の参列者もあったのだから如何に物価の安いベトナムといえどもかなりのお金が集まったのではと僕はちょっぴり期待に胸ふくらませた。そしてお父さんはメモ書きに因る収支計算書を出して読み上げた。

「祝儀総額VN5,582,100ドン!」

「・ ・・・」

って米ドルで幾らだぁと計算する僕。オーマイガッ!(@_@)当 時、US1$はVN11,000ドンだったから、たったのUS507.46$!! しかも、もっと驚いた事に結婚式場の費用全ての支出総額は US450$余りで収まってしまったという事実。「安っすぅ〜〜。」

こんな安くて許されるのかと心底思った。

ところで、一通りベトナム形式に則り当地での結婚披露宴を済ませたものの、役所(人民委員会)への結婚届けを提出し、正式に“結婚許可証”を取得するまでは法的な夫婦と認められない。そこで翌朝、2人で結婚届けを提出し、その受理をして貰った。人民委員会の担当役人から結婚許可書発行は通常2週間くらい掛かるが、“寸志”を出せば即発給するよと申し出があったので、直ちにリンカーン大統領2枚を渡してお願いした。厳かに万年筆の手書きで書かれたそれに、2人でそれぞれサインをし、一連の儀式は終了した。

ところが、で、ある。人民委員会から戻り家族のみんなと寛いでいると、さっきの役人が、焦っているような風情で自転車に乗って実家の庭先に転がり込んできたのである。何だろうと眺めていると、彼曰く

「スンマセン! 結婚証明書はベトナム人用で、外国人のそれはハノイへ行かなければ取得できないんです! 」

と、とんでもない事を言いだした。日頃物静かな彼女もこの時ばかりは両目を三角に吊り 上げて役人の胸ぐらを掴まえ理由を問い質した。僕はこの瞬間 「

あれ~、結婚早まったかな〜! 」

と脳裏を掠めたがもう遅い。

事細かく尋ねてみると、どうやら国際結婚の場合、首都ハノイへ行き関係省庁にてそれぞれ必要書類を申請し、各書類が整った上で再度、地元の役所で登録するのだという。国際結婚の詳細はここでは省くが、その後約2ヶ月かかりハノイで諸々の書類を取り揃え最終的に結婚許可を取得するに至った。振り返れば当時、国際結婚は今日のように絶対数が少なく地方の役人の無知は当然としても、ハノイの関係中央官庁ですら担当官に因って意見はまちまち揚げ句の果てにはそれぞれの役所で書類発行に必要な“寸志”を渡さねばならず、ストレスの溜まった手続きの連続だった。

その中で、最も嫌な手続きが健康診断に関わるもの。生物学的に両性の合意の下、健全且つ衛生的な夫婦生活が可能かを診るために、通常の健康診断の他に性病検査が義務づけられていた。しかも、その検査方法のひとつに男性器にガラスの細い管を差し込みいじり倒し、こねくり回すといった話が、当時、ベトナム人と外国人男性の結婚予備軍間でまことしやかに噂されており僕はそれを密かに恐れたのだ。別に見られて困るものでもない。さりとて見世物ではない。ただ、ベトナムで人間の尊厳を邪険に扱われる事に拒絶感満載だったのだ。ところが、最終的にその検査は行われず全て血液検査で賄われ多大な心配は杞憂に終わった。

それにしても、艱難辛苦の末に“結婚”したわけだから、これから2人の結婚生活の中で何かが起ころうが、おいそれと別れる 訳にも行かないし、そのつもりも当面無い。途轍もない貴重な経験をしたと思う。さて、二つの人生がひとつとなった2人のベトナムでの暮らしがいよいよここに始まった!

余話として

 冒頭で結婚時頂いた祝儀の話題にしたついでに1995年当時、 この頃のベトナムの諸物価や当時の世相などについて思い出すままにつらつら書き綴る。先ず当地の代表的な食べ物であるフォーィウこれが一杯2千ドン。フーティウの屋台が来ると、前触れ兼注文取りの少年が2枚の金属片をカチカチと叩き合わせ道行く人の家人の注意を引いていた。バインミー一本も2千ドン。しかもパンが今の倍のサイズ! パンにテカりを出すためと鮮度を保つために、薄いゼラチン質の液体を塗って道ばたで販売されていた。フォー(牛肉)は一杯4千ドンが相場。生麺なので防腐剤の代わりにナフタリンが使用され、時折、新聞紙上で取り沙汰されてはいたものの、昔も今も変わらぬベトナム朝食の定番。

今ではあちこちで普通に見られる交通信号機だが、あの頃は皆無! 現在市内各所を通じる道も多くが一方通行に定められ ているが、当時はどこも全て双方向。もっとも、今と比べてバイクも自動車も圧倒的に少なく、当時の交通量を今にイメージして貰うとすればテト休み期間中の市内交通量ほどのもの。余りの変貌ぶりに想像すらできないと思うが、サイゴンの道という道全て、もちろん中心部も含め完全未舗装。グエンフエ通りには等間隔 にキオスク(売店)が設けられており、夜になると人々が夕涼みに繰り出し、レロイ通りも含め地面にゴザを敷いて座り込み、 暗い道の真ん中で、移動マッサージや絵はがき売り、スルメ売り、 ホッビロン(半分ひなになりかけた卵で鶏肉と玉子の味が楽しめ、親子丼のような味がする)売りなどで歩行者天国みたく賑わっていた。

そんな夜道、古タイヤのカケラを車のエンジンのピストンを逆にした中に放り込み、そこに火を灯し、辻つじで営業中のパンク修理屋のその明かりを頼りに、人々は移動をしていた。当時この国の電力事情は悲惨なくらい劣っており、1日に3時間通電してい たらマシな方で、突然やって来る停電に作業中のパソコンデータを飛ばしてしまうなんてことは日常茶飯事。実にありふれた光 景だった。因みに、この頃の換算レートは1米ドル1万ドン前後 で、最高額紙幣がようやく5千ドンから赤い印刷の紙製1万ドンに切り替わったばかりの頃と記憶している。もっとも、当時は米ドルが普通に流通しており買い物では当たり前にドンの代わりに 受け取って貰え、こちらも嵩張るドンを持ち歩かなくても済むというわけで、むしろ、ドン払いよりもドル払いの方が一般的に好まれるご時世だった。

ベトナム人の服装はと言えば、男性がお誂えのYシャツにスラックス、足下も良くて革靴だが一般的には安っぽいサンダルの組み合わせが多かった。女性はと言うと、そのほとんどがアオババと呼ばれるパジャマのようなラフなツーピース。ゆったりとしたシャツとパンツの組み合わせが主流だった。ベトナム人女性 =アオザイが直ぐに頭に浮かぶだろうが、当時アオザイは女性の正装と言った感じで特別なハレの日に着用するものであり、 日常的に着用しているのは女子高生かベトナム航空の女性社員、或いは郵便局、その他国営企業の女性幹部社員くらいのもの。時折運良く下校時刻の女子高生の群れと出くわせば圧巻で、純白のアオザイをヒラヒラさせた乙女らは校門から一斉に飛び立つ紋白蝶の群れのように見えて、暫し目の保養をさせて貰ったものだ。

先に誂えの服と書いたが、何もそれが特殊で高価だというわけでなく、当時ベトナムの老若男女誰もが、貧しさから衣服に関しては下着を除き、ほとんど近所の仕立屋さんで、市場で買った自分の好みの生地を持ち込み誂えて貰うのが一般的だったのだ。今のように職種も多くなく縫い子さんの多い時代なので仕立て代も安く、当時スラックス1本の仕立て代が凡そ2~3万ドン。アオザイ1着パンタロン込みで4 万~8万ドンだったと記憶している。

さて、次号は本題に戻しハネムーンに向けてのストーリーが展開されてゆきます。乞う、ご期待!

 

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