Column

2019/08/01

嬉し恥ずかしハネムーン

前回までのあらすじ

1994年ホーチミン市に駐在員事務所を開設するために赴任してきた僕は、知遇を得たベトナム人男性に紹介された旅行会社で、働く女性に一目惚れする。その会社の社長の厚意で運よく彼女を一時、秘書に借り受け、開業に向け、慌ただしい日々を過ごしていた。出会いから半年で、僕は彼女にプロポーズ。彼女は快く承諾、その両親に会うことになり、ホーチミンから2000キロ離れた郷里ベトナム北部ソンラ省へ。やっとの思いで彼女の実家に到着。和やかな宴をかわきりに途中から質問攻め。彼女が通訳に機転を 利かせたこともあってか、なんとかご両親からお付き合いの許しを得た。挨拶も済みホーチミンへ戻ろうとしたところ、予想外の結婚披露宴が設定され地元テレビ局までくる始末。その撮影が泥酔し記憶のぶっ飛んだ僕の隙間を埋めてくれたのは何とも皮肉だった。その後、地元の役所(人民委員会)で結婚届を提出し、漸く受理されたとおもいきや「地元では外国人との結婚届けは受理できないので、首都ハノイで手続きしてください!」と、まさかの婚姻届けやり直し、、、

嬉し恥ずかしハネムーン

すったもんだの挙げ句、無事、ハノイで一連の諸手続きを済ませて正式な結婚証明書の交付をソンラ省人民委員会で発行されたのは、前回のはやり直し宣告から二ヶ月後だった。この間、ソンラ・ハノイ・サイゴンを、彼女と二人で何度行き来した事だろう。結婚披露宴費用そのものはまあ確かに安くついたが、移動に掛かる交通費と体力並びに労力は筆舌に尽くしがたいものだった。まあ紙面の都合もあるので、この件についてはここで止めておきます(笑)

結婚式から正式証明書発行までの二ヶ月間、僕と彼女の関係は友達以上、夫婦未満であった。二人一緒に書類集めに奔走しても、正式な夫婦でない僕たちは、例えばハノイで宿泊が必要となる場合でも、二人で一つの部屋というわけにゆかず、それぞれに部屋を取らなければならなかった。ここまで二人に男女の関係は全くない。今はどうか知らないが、当時は結婚証明書をフロントで見せないと成人男女が同室に泊まることは認められなかったのだ。もっとも結婚証明書以上に僕の彼女の貞操観念の強さが優っていたことの方が重要。仮に、これが現代の日本の男女ならつきあい始めて2〜3ヶ月で男女関係に発展するのは普通の成り行きだなので正直、僕自身面食らった。ましてや結婚証明書がないとはいえ、仮初にも既に結婚式も済ませ両家も同意した僕らの環境は、そのような関係になったとしても誰憚る事がない! ところが彼女は頑なに僕の要求を受け入れようとはせず、時折、 彼女の部屋に潜り込んでは、口説いたり宥め賺したりするのだ が頑として許そうとしない。彼女は「兎に角、正式な結婚証明書を手にするまでは待って、、、、」というばかり。

ハノイでのある晩、僕は火照った身体を冷やすべく、夜風をあたりにぶらりとホアンキエム湖周辺を散歩した。その畔にはコンクリート製のベンチがいつくも並べられており、 若いベトナム人カップル達が、仲睦まじく愛の言葉を囁き合い、そこかしこで愛の世界に完全に浸っている。言葉は解らぬまでも、湖岸を一周するまでに夥しい、そんなカップルを見せつけられた僕は、彼女との不完全燃焼の関係を頭に描いた時、とても惨めでいたたまれない 気持ちが込み上げて来た。そしてひとつ大きく頷くと、僕はホテルへ戻り、そのまま彼女の部屋を目指した。その両目は狼の様に爛々と光っていたに違いない。彼女の部屋へ忍び込むとバスルームの方からシャワーの音が漏れていた。卒然として、僕は狂おしいほど愛している彼女の姿をありありと思い描いた途端、僕の目からせき止められぬ 勢いで涙が溢れてきた。やがて白いタオルを胸に巻いて彼女は バスルームから出て来ると、僕の姿にはっとしながらも直ぐに笑顔を取り戻し僕を見つめていたが、いつもと違う僕の表情にさっきまでの笑顔は消え失せさっと怯えた表情で小さく慄えだした。

誤解のないようにいうけど、僕自身、仮に長く付き合っている恋人であっても力ずくで欲望を遂げようとする野暮天ではない! あくまでも理性が全脳を支配する時に恋人がじれるほど粋でいなせな優しいジェントルマン♪ しかし結婚式まて済ませた二人の間に未だ肉体的な関係もない (実際キスすらない!) のは健全な夫婦!?じゃないし、絶対おかしいと自分に納得させ、僕は怯える彼女に飛びかかった。次の瞬間僕の身体は 宙に浮き一回転、そのまま落下し腰をベットの角でしこたま打ちつけた! 挙げ句、どうと床に体は崩れ落ち、目を回していた。彼女の意図せぬ巴投げが見事に決まったらしい。激しい痛みと、それに勝るとも劣らない屈辱感で身動きがとれず、僕は暫くうっ~と呻いていた。彼女は直ぐに心配そうに倒れて仰向けになっている僕の顔を覗き込み「大丈夫?」と心配そうに呟いた。うめきつつ照れ隠しの作り笑いと共に声にならない声で、「だ・だひじょじょぷ、、うっっ・・・」なんて答えたものの、身体は僕の意志とは裏腹に自力で起きあがることが出来なくなっていた。彼女はそっと僕を抱き起こし腰さすってくれようとするのだが、都度、腰に激痛が走るため僕は白目を剥いて「暫くそっとしておいて、、、」と彼女に懇願していたのだった。心身ともに完全に意気消沈。もはや色気どころの騒ぎじゃない。身も心も完膚なきまでに萎えていたのだった。

さすが4歳から母親の手伝いで自宅から4キロ先の共同水くみ場まで天秤棒を担いで日々何度も往復して来ただけである。彼女の足腰は既にヤワラちゃんばりに出来上がっていたことを僕はすっかり忘れていた。その後、腰の痛みは3日ほど続いたものの、彼女の献身的なケアにより何とか4日目の朝には起きて歩くことができるようになった。で、その間、僕は考えた。肉欲の繋がり以前に、夫婦にとって心の繋がりが最もかけがえのない大切なものであることを無言のうちに彼女から教えられたのだと。

結婚許可書が交付されたその夜、僕らは極自然に結ばれた。 また巴投げを食らうのではないか心配しつつ、辺りに凶器にな るようなものがないか予め確認しておいたのは云うまでもない。 思い返せば、この二ヶ月間が僕ら夫婦にとっての心のハネムーンだったのかも知れない。翌朝、顔を洗いに表へ出ると彼女は シーツを洗濯板に当ててごしごし洗っていた。「Chao Em」と声を 掛けると、僅かにはにかみながら彼女は頬を朱に染め「Chao Anh」と返した。「もう暫くしたら洗濯が終わるから・・・」と言い終え ぬうちに彼女は洗い上がりのシーツをもって干場へ向かった。 少しぎこちなさそうに歩く彼女の後ろ姿を見送りながら僕は生涯の伴侶として、この新妻を愛し続けようと心に誓ったのだった。

晴れて身も心も夫婦になって3ヶ月が経った。僕らの新居は間借りであったが、1区の目抜き通りLe Duan通りとHai Ba Trung通 りが交差する角 41 Le Duanの古びたフレンチコロニアルスタイルの建物の二階にある二部屋だった。一つは仕事用事務所として、もう一つは僕たちの愛の巣だ。2019年現在、モダンなビルに建て代わっており、当時の面影はもはやない。ハノイから戻って、これまでの結婚手続きのドタバタで浪費した時間を取り戻すかのように脇目もふらず二人は働いた。朝ご飯はフォー、昼もブンボー。夜は、適当なレストランに入り食事はほとんど外食に頼る生活だった。

そんなある日、日本の僕のお袋から便りが届いた。既にソンラで結婚式を済ませた僕らだったが、実家の両親は僕が長男であることを理由に日本での結婚披露宴を打診してきた。僕自身いつかは親戚や友人達を集めて披露宴をしなければならないと頭の隅に留めていたものの、仕事が安定し、軌道に乗るまで少なくとも2年はかかるだろうと考えていたため、お袋にはその旨返事をしておいた。ところが、運の良いことに当時の勤務先の社長(ボス)から仕事の進捗の報告とハネムーンを兼ねて2〜3ヶ月中に一度、かみさんを連れて日本の本社に来るよう連絡が入った。

と、その時である。自分でも無意識のうちに僕は突然ボスに、 「帰国の間に日本で披露宴を挙げようと思っています。ついては 社長、仲人をお引き受け頂けませんか?」と咄嗟に口にしていた。やや間があいてのち、ボスから「わかりました。喜んでお引き受け致しましょう」と返事を頂いた。ラッキーと思ったのもつかの間、突然の仲人依頼をした当人には何ら具体的なプランはなかった。まぁ、しかし、言い出した以上進めるほかはなく、その日から実家の母と蜜に連絡を取り合い、式場手配から招待状手配まで結婚披露宴の計画を立てたのだった。その当時は、今の様にメールもなければ、インターネットすらない時代である。仕事の合間を縫って、電話での確認作業は膨大なコストが嵩んだ。

次回は、いよいよ日本への新婚旅行に向けて推進します。さ てさてどんな旅になるのやら。続きを乞うご期待下さい!

 

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