Column

2019/10/01

日越結婚物語「第7回:いよいよ故郷の土地を踏む」

前回までのあらすじ

僕は1994年にホーチミン市へ赴任。妻となる人と運命的な出会いをし、半年後に彼女へ、プロポーズ。そして紆余曲折を経て、晴れて身も心も夫婦となり、忙しい毎日を過ごしていた。そんなある日、日本の社長から、仕事報告ついでに日本旅行でもしないかと厚意を受け、その帰国中に結婚披露宴を開くことになった。妻を始め海外旅行は初の義父母。道中、難儀はあったものの、やっとの思いで、新大阪駅より新幹線に乗り込んだのだった。今回の話は、1996年5月、ベトナムの家族一行かとヨーロッパからの友人と共に、私の故郷、岐阜羽島駅へ辿り着いたところから始まる。

いよいよ故郷の土を踏む

薫風が気持ちよく頬をなでる5月の昼下がり、岐阜羽島駅に到着した一行・総勢7名を出迎えてくれたのは僕の両親と弟の知紀。僕らが改札口を出るやいなや、僕が義父母を両親に紹介しようとすると、お袋は日本語で、

「まあまあ。よくこんな田舎まで遠路遙々お越し下さいました。何もお構いできませんが、どうぞ、どうぞ。ごゆっくりお寛ぎください。」

と挨拶をする。義父母もその場の状況判断を咄嗟に察し、ベトナム語で答礼。車2台に分乗し、 駅から10分ほどのところにある私の実家に入った。自宅の各部屋を一行に振り分けると、皆思い思いに休息をとった。旅の疲れをとってもらうためだ。夕方になると僕の親類縁者が続々と我が家へ集結してきた。今宵は、羽島市内唯一の料亭である音羽(おとわ)で会席料理の宴を用意してある。参加者全員がうち揃うと、料亭差し回しのバスに乗り込みて宴会場へ移動。

畳60畳ほどの大宴会場には、親類縁者友人40名ほどが集結し、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎが始まる。しかし、僕ら夫婦は終始両家の親たちの為に、馴れ初めから結婚までの経緯、或いは今後の生活などについて、忙しく双方への通訳をさせられ食事どころではなかった。これが、結構骨がおれる。なぜなら、先ず僕の親の話を英訳し、それを今度は、かみさんが、ベトナム語へ。そしてそれが往復されるから、ひとつの話題に10~15分も費やされる。が、それでも、親たちのニコニコとした嬉しそうな笑顔を見ていると、そんな疲れもなんのその。

友人のミッシェルとカトリーナにとって座敷の宴席は初体験であり、宴会開始直後は他の参加者に習い、温和しく正座の真似事をしていたが、3分もしないうちに堪らず音をあげた! そうこうしているとミッシェルは僕らのもとへ2本の赤ワインを両手にしやってきた。何でも、今日のこの日の為にパリ北部ドモンにある彼の自宅地下ワインセラーから 父親の目をくすねて失敬してきたという。1978年もののブルゴーニュ産赤ワインで、最高の当たり年に収穫された品らしく、ミッシェルの父君の秘蔵品とのこと。この件に関し僕は今現在も一切関知しない!! まぁ、飲んだけどね(笑)

中座で、料亭の女将が着物をビシっと決め我らの座敷に挨拶にまかり越す。ミッシェルとカトリーナは、

「Oh! ゲイシャガールね~」

と言いながら二人で大盛りあがり!! 違うともいえず、彼らは盛んに女将に向けカメラのシャッターを切っていた。僕の親父と岳父は、お互い顔を付き合わせながら、無言で、酒を酌み交わす。お袋と義母は、お互い身振り手振りで意思の疎通をはかり、なんとか話の花を咲かせていた。旨い料理、美味い酒に酔いしれた最上の宴はこの日、夜遅くまで続いた。

一夜明け、披露宴の前日のこの日、僕は結婚式場の羽島平安閣へかみさんと出向き、当日の進行の打ち合わせ。 僕らのお色直しは二度。始めにベトナムで、仕立てた新郎新婦一対の婚礼用アオザイ一式を帽子付きで着用。お色直しの一度目は純白のウエディングドレスと黒のモーニング。二度目は純和風に、白い家紋を染め抜いた黒の羽織と馬乗袴は僕。お袋がこの晴れの日の為に京都の着物職人に誂えさせた、留め袖に作り替える際に色抜きができる柄物の振り袖姿をかみさんが着用し、〆となる。

僕の結婚式は一世一代の晴れ舞台だからとお袋は、かみさん用に文金高島田の打掛を注文するか、振り袖にするか随分悩んだらしい。時間をかけ考え抜いた末、結局、打掛は一度しか着る機会 がない。それに馴れぬ着物、しかも、外国人の嫁に披露宴のさなか、重い思いをさせるのは可愛そうだという理由で、結局振り袖にしたとのこと。また着付けは、日頃から和装を好んだお袋にとってはお手の物。息子の花嫁のそれを自らの手でしてやりたいという気持ちがどこかで働いたのかも知れない。

今も富山・石川両県のローカルFMで人気パーソナリティーとして活躍する、旧友であり悪友のダン吉に披露宴の司会進行を依頼した。ダン吉は式の前日に車を飛ばして岐阜羽島入りをし、平安閣の担当者と進行の打ち合わせをしてくれた。学生時代は、いい加減な奴と思っていたが、仕事となると真剣そのものた。打ち合わせの途中で、下手に口を挟んだりすれば噛みつかれるのではないかと思うほどの真面目な表情で担当者側に進行指示をテキパキと出していた。

さて、いよいよ披露宴当日か。ベトナム国歌を伴奏に参加者の拍手に迎えられる中、アオザイを着た彼女と僕は仲人の社長夫妻と一緒に、しずしずとひな壇へ向かった。ソンラの式を含めると二回目の披露宴だが、二人とも極度に緊張しているせいで歩き方がチグハグとなんとなくぎこちない。やがて仲人ご夫妻から新郎新婦の紹介が始まった。出席者は日本人ばかりでなくベトナムの両親と妹、それにミッシェルやカトリーナも加わっている。そこで、岐阜大学のベトナム人留学生にベトナム語の通訳を、イギリス時代の友人に、英語通訳をそれぞれお願いした。

紹介が終わるとウェディングケーキ入刀。続いてシャンパンを開けて大叔父の乾杯の音頭を合図に、参加者らの祝辞が始まった。学生時代の友人達を皮切りに昔の同僚・上司・後輩など、皆気の好い人たちなのだが、とにかく、遠慮というものを知らない。ひな壇に畏まる新郎の行動が制限されているのを承知で、僕の過去の失敗談やスキャンダルなど面白可笑しく脚色し、好き勝手に宣ってくれる。

それを聞いた親父はこめかみに青筋を立てているのがひな壇から容易に見て取れるし、 お袋は一緒になって苦笑い。そのうえ親戚中に僕の悪行が知られるところとなり、肝を冷やし通し。当然、内容はベトナム語・英語にベトナムの義父母やミッシェル達通訳陣に正確に訳され一呼吸遅れてゲラゲラと笑われた。幸い義父母は静かに聴いていてくれていた のがせめてもの救いだった。しかし、隣で初めて知る僕の過去に、笑いつつも睨みつけるかみさんの視線には少々バツが悪かった、、、マズいよな。。。

一度目のお色直しで、ウェデイグドレスに着替えたかみさんを見 て、会場のあちこちから溜息が漏れていた。その瞬間ほど彼女を本当に美しいと思った事はなかった。披露宴の緊張感に包まれる中で、花嫁さんの艶姿に僕自身、ドギマギして緊張はさらに高まって いった。友人らの余興が続き、そして二度目のお色直し。今度は二人とも和装である。口の悪い僕の友人達は

「おまえにやアオザイが似合ってるよ!」

と茶化す。そんな奴らをほっといて着席すると、いよいよ両親の謝辞が始まった。

正直、僕はこれまで結婚式で泣く男を軽蔑して来た。男なら、どっしりと構え式に臨むのが日本男児であると信じていた。だが、まさかその軽蔑されるべき男に自分が成り下がろうとはよもや思ってもみなかった!

と言うのも、司会ダン吉のナレーションの巧さにやられたのである。かあさんの唄調で、予め両親からこっそりと聞き出した僕の子供の頃のエピソードをもの悲しい哀愁と郷愁を織り交ぜ、否が応でも感情を呼び覚ますように切々と語る。胸の中で、

「おい止めてくれ~~それは掟破りやろ!!!!」

と心の中で叫びつつも彼の語りは徐々にクライマックスへ、気がついたら僕は人目も憚らず鼻水垂らして号泣してしまったのである。とっさに、かみさんがハンカチを差し出してくれたが、彼女のその顔も涙でぐちゃぐちゃになっていた。僕の生涯においてこの日ほど、涙を流した事はない。僕は義父母に、嫁さんは僕の両親 に花束を贈呈した。お袋は、かみさんに

「息子を宜しくね」

と拝むよう に何度も何度も頼む姿を見て、また涙腺が弛んでしまった。

披露宴の翌日、ゆっくりと岐阜羽島で一日過ごした後は、義父母・義妹、それにミッシェルやカトリーナを連れて日本旅行を案内する予定。僕は各地でお客さん回りがあるため実の弟に応援を要請し、仕事で抜ける間、皆の世話をするようにした。名古屋日帰りを皮切りに、東京・京都・大阪を周り、そして関空からベトナムへ帰還という 案配。

次回はいよいよ本当の新婚旅行の始まりです。ご期待下さい!

 

 

 

 

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