Column

2019/11/01

日越結婚物語「第8回:新婚旅行 名古屋&岐阜編」

前回までのあらすじ

 僕は1994年にホーチミン市へ赴任。妻と運命的な出会い、 そして半年で、プロポーズ。様々な過程を経て、晴れて身も心も夫婦とな り毎日を過ごしていた。ある日、直属の上司である日本の社長から、仕事の進捗を報告がてらに日本旅行でもと厚意を受け、急遽その帰国中に結婚披露宴を開くことになった。妻を始め義父 母も海外旅行は初めて。道中、色々なことがあったものの、やっとのことで実家に到着。そして、1995年9月23日、岐阜羽島で行われた 披露宴本番では、悪友・ダン吉の巧妙な演出もあり、僕は感極まり、恥ずかしながら号泣してしまった。それぞれの両親や親戚、友人、知人などから祝福を受け披露宴の余韻に浸りつつも、いよいよ僕らの新婚旅行が始まるのである。

新婚旅行 名古屋&岐阜編

  身上(しんしょう)という言葉をご存知だろうか?尾張・美濃の地では、昔から一家に娘三人、全てを嫁入りに出すと身上をはたくと言われている。つまり、財産をを使い果たすといわれるほど、結婚式にお金をかけ贅を極める土地柄。貧しい新興国ベトナムから嫁を貰って、さぞ結婚式を安上がりに済ませたなどと、近所の噂に上れば、我が家末代までの恥! なので、古式に従って、今ではすっかり衰退した嫁入りの儀式のひとつ“母屋の二階から菓子撒き”を行った。披露宴会場移動前に実家の二階に設けた桟敷席から、夫婦二人で親族と共に階下に集まった群衆に向かいお菓子を撒いて振る舞うのである。嫁入り道具などを事前に披露する習慣もあるのだが、僕らの生活拠点はあくまでもベトナム。それらは揃えることなく、浮いたお金で、今回の日本国内旅行に回した。

菓子まき参考リンク

 披露宴の翌日、僕は結婚式場へ披露宴の精算に訪れた。事前に予算組はしておいたものの、結局虎の子の現金数百万円が溶けて流れた。今から思えばこのお金で、ベトナムでの不動産購入資金にでも充てておくべきだったと多少の悔いが残る。特に後年、ベトナム不動産が異常に高騰・バブル化の様相を呈し、それが継続化すると共に後悔は確信に変わっていった。なにせ当時、間取りとロケーションにもよるが、およそ3~5万米ドルもあれば、100平米前後の土地付き4階建ての一戸建てが、ホーチミン市内の1区や3区の外れや、フーニュアン区辺りでも買うことが十分可能だった時代。現在のゴーバップ区や12区やトゥードック区、そしてローカルマフィアの巣窟と言われた4区などは、 それこそ2~3,000米ドルも払えば、同じような物件を手に入れることが容易だった。ハノイなら前者は、旧市街地区。後者は、ハードン周辺のイメージである。

もっとも、偽の不動産登記簿や登記簿のない怪しい物件も大量に出回っていた時代のこと、不動産購入には多くの人々(ベトナム人を含む)が、二の足を踏んで購入に至らぬケースも多々あっ た。結果的に僕らもそんな中の一組(苦笑)。これらを加味しても、なんともまあド~~~~ンと豪勢な披露宴を挙げようと見栄を張ったのだが、どこへ出しても恥ずかしくない上出来だったと満足しているし、日越両家にとって、日本での一生の想い出として残る素敵な披露宴を挙げられたと思う。とは言え、 なんとなくここにこうして書き綴ること自体、負け惜しみ感満載なのが、ちょっぴり頂けないが、、、、(苦笑)。

閑話休題

 さて、披露宴の支払いを済ませた、その日の午後。昼食を終えると僕ら夫婦は列車で名古屋へ向かった。当時の直属の上司であり、今回、 僕ら夫婦の仲人を務めて頂いた社長ご夫妻のお宅へ、お取り持ちのお礼のご挨拶に伺った。社長のお宅は名古屋でも閑静で由緒あるお屋敷街にあり、ご夫妻は共に和服を着て僕らの到着を待っていてくれた。 ご丁寧にお屋敷に僕らを迎え入れて下さった。畏まったお礼の言上を済ませると、奥様にお茶を点てて頂き、且つ、お祝いとは別に挨拶に来たご祝儀を過分に戴いてしまった。社長の僕ら二人に対する今後のベトナムでの活躍に対する並々ならぬ期待が伝わってきたのだった。

 頃合いを見て社長宅を辞去すると、その足で名古屋のビジネス街がある長者町の本社へ出向き、同僚諸氏への結婚の報告並びに今後の仕事運びの段取りなどについて打ち合わせを行った。特に嬉しかったのは、会社の同僚らが祝儀を集め、お祝いの言葉と共に僕らに贈ってくれたこと。心優しい頼れる同僚たちのためにも改めてベトナムで頑張らなきゃいけないとの思いを一層強くしたのであった。

 僕が仕事で打ち合わせの間、日本語が解らないかみさんは、僕の隣でポツンと座り事が終わるのを静かに待っていた。会社の辞去したときは既に午後7時を少し回 っていた。名古屋まで来たのに、観光らしいことしていないなと思いつつも、日は暮れており、 今から名古屋城でもなかろう。徒歩圏にあってしかもいつも明るいサカエチカ(当時、日本一の広い地下街)を案内することにした。地下に広がる繁華街にかみさんは驚きを隠せない様子だった。煌々と明るく照らし出される沢山の灯りに、色とりどりのショップが、趣向を凝らした商品を陳列する様は、モノのなく当時夜は暗闇しかなかった彼女にとって圧巻だったのだろう。それを見て、彼女が一言。

「よくも停電が起こらないものね」これは今も忘れない。 そうだろうと思う。結婚した当時、ホーチミン市中心部ですら一日に停電は何度もあり、通電していない時 間帯の方が多く、これが普通だった。多くの企業が自前の発電機を常備していた時代だった。 ウィンドーショッピングでかみさんは注意深く一軒一軒お店を観察するように回っていた。歩き疲れと空腹感も手伝って、地下街の名古屋名物・味噌カツ有名店で、定食をいただく。甘みのある味噌だれが、ころもを通して豚肉の表面に沁み、肉は柔らかくジューシー。かみさんの口にもよく合ったようで、満足げに箸を進めていた。そして自宅に戻ったのは深夜に近い時間だったと記憶している。

 僕ら夫婦が、名古屋に来ている間、僕の両親は、結婚披露宴でベトナム語通訳をして貰ったベトナム人留学生同伴で、義父母と義妹ニュン、ミッシェルとカトリーナと自宅から近郊の観光地へ日帰りツアーに出掛けた。訪れたのは養老の滝や、木曽川・長 良川・揖斐川が交わる日本最大の国営公園・木曽三川公園。公 園内には濃尾平野が、一望の下に見渡せる展望タワーや、多様な木製フィールドアスレチックが備えられており、ミッシェルとカトリーナ、ニュンたちは子供のようにはしゃぎ楽しく時間を過ごしたようだ。

 ベトナム山岳地帯からやって来た義父母にとって、山や川は、そう取り立てて珍しいものではなかったようだった。 ところが、その帰りに食料の買い出しで立ち寄った自宅近くの大型スーパーへ入店するやいなや、義父母は一転、それまでの表情とは打って変わり、あちこち探るように店内を徘徊し始めたという。 店舗の規模、扱い商品の豊富さ、そして隅々まで行き渡る清潔 感に感動し、通訳を介してあれこれ尋ねては幾度も感心していたそうだ。結果的に義父母が、最も喜んだ行き先が自宅から僅か300メートル先のスーパーだったとは皮肉なものである。ちなみに、件のスーパーとは、関西スーパー界で当時、破竹の勢い だったニチイ羽島店。しかし、そのニチイも今は既にないのは、皆さんご存知のとおり。

 日本のイオンがホーチミン市にオープンする昨今、ベトナム都市部の発展ぶりを見れば、この当時の義父母のリアクションには、きっと読者の皆さんも首を傾げるだろう。実は、ここベトナムに初めて本格的なスーパーマーケットが誕生するのは、この時代より更に二年後の1997年まで待たねばならなかったのだ。ましてや外資系のメトロやBig Cとなると、2002~3年に至ってようやく完成を見る程度。当時のベトナム人、しかも田舎者の義父母からしてみれば、驚くべき最先端の未来市場に見えたで あろう。この日帰り旅行は参加者全ての絆を深めるに大いに役立った。義父母もミッシェルたちに負けずと写真を撮りまくっていた。今もかみさんの実家へ旧正月休暇で帰ると義父母は整理されたアルバムを持ち出しては、当時の様子を懐かしそうに感慨深げに僕らに語るのである。

 いよいよ明日から東京だ。果たして、次回はどんな旅が待っているか。どうぞ皆さん、次号もお楽しみに!

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